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i to…。
By 神魅 龍鬼 / Shinmi Ruki · JP
「幸せ」とは、誰がどのように決めるものなのだろう。人と繋がること、誰かに愛されること、家族や友人に囲まれること、一度生まれた関係を長く大切にすること。私たちは、そうした状態を自然と「幸せ」と呼ぶことがある。もちろん、人との繋がりに救われ、人生が豊かになることもある。しかし、それはすべての人にとって同じなのだろうか。繋がりを大切にする人がいる一方、一人でいることに安らぎを感じる人もいる。関係を続けることで救われる人も、離れることで自分を守れる人もいる。誰かを大切に思う気持ちが相手を救うことも、重荷になることもある。さらに、自分に必要な選択が誰かを傷つけることもある。では、誰かが傷ついたとき、そこには必ず「悪い人」が存在するのだろうか。反対に、誰かのためを思って繋がり続けようとすることは、いつでも「良いこと」なのだろうか。私は人間関係や幸福について考える中で、「繋がること」「離れること」「続けること」「終わらせること」に、外側から簡単に善悪を与えることへの違和感を持つようになった。その曖昧さを一つの画面に表現するために選んだものが「糸」だった。糸は古くから縁や運命、人と人との繋がりを象徴してきた。だからモチーフそのものが新しいわけではない。それでも私が糸を選んだのは、糸には「繋ぐ」以外にも多くの状態が存在するからだ。結ぶ、抱える、引く、絡まる、ほどく、切る、手放す、そして一度離れたものをもう一度結ぶ。同じ一本の糸でも、関わり方によって意味は変わる。そして糸そのものには意思も善悪もない。結ばれた糸が正しく、切られた糸が間違っているわけではない。長く続いた糸に価値があり、短く終わった糸に価値がないわけでもない。 画面中央には、無数の色とりどりの糸が集まり、人のような輪郭を作った大きな存在が立っている。私はこの存在をまず「私」と考えている。ただし、外見を再現した自画像ではない。人は生活する中で、程度の違いはあっても誰かしらと関わりを持つ。家族、友人、知人、学校や仕事で出会う人。現在の関係だけでなく、すでに離れた人や短い時間だけ関わった人との経験も、自分の中に何かを残すことがある。私は、自分という存在をそうした他者との関係から完全に切り離して描くことはできないと考えた。そこで、一つの身体を持った「私」ではなく、無数の糸が集まり、重なり、絡まり合うことで人の輪郭が現れる存在として「私」を描いた。中央から周囲へ伸びる一本一本の糸は、「私」と一人ひとりの他者との間に生まれた繋がりである。しかし、糸の存在自体を「幸福」としてはいない。私との糸を大切に抱える人、強く引く人、切る人、一度切れた糸を結び直そうとする人、手放す人、糸に絡まり水の中でもがく人、そして目の前に糸があっても積極的に握らない人がいる。ここで描きたかったのは、「私は人との繋がりによって影響を受ける」という一方向の関係だけではない。私自身から伸びる糸が誰かに影響を与え、ときには誰かを苦しめてしまうこともある。自分に悪意がなくても、私との関係が誰かにとって重荷になることがある。自分が大切にしたい糸を相手は切りたいかもしれない。反対に、自分が終わらせたい糸を相手は結び直したいかもしれない。一本の糸には両端があり、その両端にいる二人が同じ意味を与えているとは限らない。私にとって「大切にしている」が、相手には「離してくれない」と感じられることもある。私にとっての「手放す」が、相手には「捨てられた」と感じられることもある。同じ関係でも、立つ位置によって違う物語になる。だから中央の「私」は周囲の人物を操ってはいない。糸の先にいる人が、その糸をどう扱い、どう感じるのかまで「私」が決めることはできないからだ。 一方、この中央の存在は「私」だけでなく、無数の人間関係が集まった姿として見ることもできる。一本の糸は「私と誰か」の関係だが、その「誰か」にも私には見えない別の糸がある。その人にも別の人との関係があり、その先にもさらに別の糸がある。一人の「私」から始まったように見える糸は、画面の外へ際限なく広がっている。つまり中央の存在は、一人称では「私」であり、遠くから見れば、人間が互いに関わり影響しながら生きる「人間関係の集合体」としても見ることができる。私はどちらか一方を正解にはしていない。中央にいる「私」も、誰かから見れば一人の「他者」である。視点を周囲の一人へ移せば、その人物が無数の糸を持つ「私」になり、中央の存在は一本の糸の先にいる誰かになる。中央だけが大きいのは、その「私」が他者より重要だからではなく、一人の「私」を中心とした一瞬を切り取ったからである。視点が変われば中心も変わる。それぞれの人に、それぞれを中心とした世界がある。 中央の身体を構成する糸を一色にしなかったのも、人との関係を一つの感情だけで説明したくなかったからである。「愛」「友情」「家族」と名前をつけても、感情まで一つになるわけではない。安心、喜び、憧れ、寂しさ、依存、執着、後悔、痛み。矛盾する感情が同時に存在することもある。どの色がどの感情を表すかも決めていない。また、中央の身体を作る糸と周囲へ伸びる糸を完全に別のものにはしていない。他者との関係は自分の外側だけに存在するものではなく、その経験が記憶や価値観、その後の人との関わり方として自分の一部になることもあるからだ。大切にされた経験が次の誰かを信じる力になり、傷ついた経験が次の糸への恐れになることもある。しかしこれは、「人は他者との繋がりによってのみ完成する」という意味ではない。人との繋がりが人を形作ることと、人と繋がっていることだけを幸福の条件にすることは別の話だからである。 周囲の人型には、年齢、性別、表情など、個人を特定する情報を極力与えていない。属性や表情を与えれば、背景や関係性、感情を作者が先に決めてしまう。私は彼らの感情を完成させたくなかった。糸を身体の近くに抱える存在は、大切な繋がりを愛おしく守っているようにも、失うことを恐れて手放せなくなっているようにも見える。糸を強く引く存在は、離れてしまいそうな大切な誰かを守ろうとしているのかもしれない。しかし反対側から見れば、離れたい相手を無理に引き戻しているのかもしれない。同じ「離したくない」という思いが、ある人には愛情となり、別の人には束縛となる可能性がある。ハサミで糸を切る存在もいる。「縁を切る」と聞けば冷たい行為に感じるかもしれない。しかし、その糸によって苦しんでいたなら、切ることは自分を守るために必要な選択かもしれない。一方で、相手が大切にしていた繋がりを一方的に断ち切っている可能性もある。だから切られた糸から光を失わせてはいない。切れたことは、その関係に価値がなかったことと同じではないからだ。糸を結ぶ存在は、離れた関係をもう一度繋ぎ直しているのかもしれない。壊れかけた関係を修復しているのかもしれない。しかし「結ぶこと」が必ず優しさとも限らない。相手が終わらせたい糸を再び繋ぎ止めようとしている可能性もある。だから「切る」と「結ぶ」を悪と善の対立にはしていない。糸を手放す存在もいる。それは諦めなのか、相手を自由にすることなのか、自分自身を自由にすることなのか、ただその糸を必要としなくなっただけなのか。私はその理由を決めていない。 画面左下には、糸に絡まり水の中でもがく存在がいる。重要なのは、その人物を苦しめているように見える糸も、ほかの人物が大切に抱える糸も、同じように鮮やかで美しく光っていることである。苦しみにつながる糸だけを黒く、醜くすることは避けた。ある人にとって大切で美しい繋がりが、別の人には身動きを取れなくするものになることがあるからだ。この人物がなぜ絡まったのかも決めていない。中央の「私」との関係に苦しんでいるのかもしれない。自ら手放せない糸を抱えすぎたのか、誰かに絡められたのか、複数の関係が重なったのかもしれない。伸ばした手も、助けを求めているのか、自分で抜け出そうとしているのかは分からない。この存在を単純な「不幸な人」にはしたくなかった。 その対照として、画面右下には糸を積極的に握らず、水面に静かに浮かぶ存在がいる。その人物は糸を切らず、拒絶もせず、ただ握っていない。この人物を「孤独」や「寂しさ」の象徴にも、「誰とも繋がらないことこそ自由」という理想像にもしていない。人と積極的に繋がらない状態を、必ず欠落と捉える必要があるのだろうか。繋がることで満たされる人がいるなら、距離を保つことで満たされる人もいてよい。選ぶ自由があるなら、選ばない自由もあってよい。左下では糸に絡まり水中でもがく人がいる。右下では糸を握らず静かに水に身を任せる人がいる。しかし、私はどちらが幸せなのかを示していない。 むしろ鑑賞者が「こちらはかわいそう」「こちらは自由そう」「切る人は冷たい」「結ぶ人は優しい」と感じたとき、その判断がどこから生まれたのかを考えてほしい。それは作品の人物が感じていることなのか。それとも、自分の「幸福」「孤独」「愛情」「人間関係」への価値観を、表情のない人物へ重ねているのだろうか。鑑賞者が空白になった顔へ感情を与えた瞬間、そこには鑑賞者自身の価値観が現れる。私はその瞬間までを作品の一部と考えている。 夜の湖を舞台にしたのも、明確な答えを示さない世界を作りたかったからである。暗い世界の中で無数の糸だけが鮮やかに光り、水面にもその光が映る。その光は希望や美しい記憶にも、執着や束縛にも見えるかもしれない。同じ光でも意味は人によって異なる。私は「人との繋がりは大切だ」とも、「人間関係から自由になるべきだ」とも伝えたいわけではない。抱えること、引くこと、絡まること、切ること、結び直すこと、手放すこと、そして何もしないこと。そのどれか一つを正解にはしない。 作品名は『i to…。』。日本語の「糸」は“ito”と読む。同時に“i”と“to”に分ければ、“I”は「私」を、“to”は誰か、何か、その先へ向かう方向を想起させる。中央にいる「i=私」から、糸は誰かへ伸びていく。“I to …”。私は、誰と。私は、何と。私は、どこへ。その先に続く言葉は書いていない。さらに「…」の直後には、日本語で文章の終わりを示す「。」を置いた。「…」はまだ続いていくことを感じさせ、「。」はそこで終わることを示す。続いているようで終わっている。終わったようで、その先を想像する余白が残っている。人との関係も同じなのかもしれない。切れたから消えるとは限らない。結ばれているから続いているとも限らない。離れていても残るものがあり、そばにいても失われているものがある。一人の「私」から伸びた糸の先には別の「私」がいる。その人からもまた別の糸が伸び、その先にも誰かがいる。だから「…」は、一つの関係の続きを示すと同時に、画面の外側へ際限なく広がる人と人との繋がりにも重なる。 私は、この作品に答えを描きたくなかった。どの糸を握るのか、離すのか、切るのか、結ぶのか、距離を置くのか、あるいは最初から握らないのか。その選択をするのは、その人自身である。そして一本の糸の両端にいる二人が、同じ答えを選ぶとも限らない。『i to…。』で描きたかったのは、「人は繋がるべきか」という問いへの答えではない。「私は、この糸とどう関わりたいのか。」「私との糸を、相手はどう感じているのか。」「他者が選んだ糸との関わり方を、私はどこまで決めつけてよいのか。」誰かが傷ついても、必ず悪者がいるとは限らない。幸せそうに見える人が、本当に幸せなのかも分からない。他人から見える幸福と、本人が感じる幸福は同じとは限らない。中央にいる「私」も、周囲にいる「誰か」も、視点を変えれば互いの立場になる。無数の糸が交差する中で、自分はどの糸とどう関わるのか。そして、自分とは違う関わり方を選んだ誰かを、どう見るのか。私は答えを描かず、その余白に何を感じ、どんな答えを置くのかを、見る人一人ひとりに委ねたい。
- Category
- VISUAL ART
- Approved
- 9 October 2026
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